あるライトノベル作家から見た『西洋中世文化事典』(支倉凍砂)
初めまして。支倉凍砂と申します。普段はライトノベルと呼ばれるジャンルにて、小説を書いて生計を立てている者です。
デビュー作は『狼と香辛料』というタイトルで、いわゆる中世ヨーロッパ風ファンタジーになります。
ただ、この作品は一般的な中世ヨーロッパ風ファンタジーの世界観による剣と魔法の物語ではなく、商業をテーマにした作品でした。おかげで発刊当時(2006年)ありがたくも話題になってくれました。自分の記憶でも、商業をメインにした作品はとても限られていて、新人賞を狙ううえで戦略的に物語の構築を目指したことを今でも覚えています。
ただ、当時大学生の自分は物理学科所属であり、世界史の知識は中学生のまま止まっておりましたから、西洋中世史、ましてや中世経済史などはさらに未知の領域でありました。
関連資料を読み始めたのは2000年前後のことで、インターネットはありましたが今のように便利なものではなく、たまたま手に取った本の参考文献や、その本が置いてある本屋さんの棚、あるいは愚直に大学の図書館でキーワードを頼りに資料を探すほかありませんでした。
またその参考にする書籍も、一般向けの読み物や概説的なものというのは歴史理解には十分なのでしょうが、いざ創作に使おうとするとひどく情報が曖昧で、欠落している部分が多いと気づかされました。
もっと中世の商人たちや中世の経済を具体的に知りたいと思い、シャンパーニュ大市の分析だとか12世紀修道院の経営分析だとかの学術書を手に取ってみましたが、今度は無味乾燥の数字の羅列や、当時の行政文書だのの分析が襲い掛かってきました。そして長い時間をかけ苦闘して読んだ後、創作に使えそうな知識はごくわずか……というか全然ない、みたいなことが多々ありました。
門外漢が手探りで資料を漁っているせいもありましょうが、専門書では専門的過ぎて、一般向け読み物では曖昧過ぎるという事態に、よく苦しめられました。
また、これは情報の深度だけでなく、広さや焦点にもまとわりつく問題でした。
商業をテーマにしようとすると、経済行為は人々の生活の様々な面に関わるものでありますから、具体的なことが幅広くわからないと、説得力ある物語を書けません。同時に、その人々の生活というものは社会制度によって形作られるため、市町村(?)の行政や、さらに上級の権力機構など、ミクロからマクロまでの視点が必要になりますが、良い感じに焦点の当てられている本というのは滅多にありません。
さらにここに、物語の主人公たる商人が取り扱う地域の特産品や、商いに訪れる各地の慣習、地域の伝統や祝祭などと話を広げていくと、それらの事柄をうまく解説してくれる一冊の本など、ありえないのは当然のことだとも思います。
なぜなら、このように考えていくと、創作に必要なのは中世政治史の本でも中世経済史の本でもなく、西洋中世の文化全体の本なのだから――というところで、ついに2025年、『西洋中世文化事典』の発売を知ったのでした。
もちろん類書は過去にもたくさんあるかと思いますが、総花的であったり、いまいち情報に信用が置けなかったりと、自分はあまり触れてきませんでした。特に創作家向けと銘打たれたものは、皆がぼんやりと知っているであろうことを解説する、という編集意図が透けて見えるせいで、かえって参考にならないものが多いように感じられました。
しかし本書においては、切り口が学術的であり、各項目の解説を専門家が担っています。
また情報の整理にもかなり重きが置かれていて、たとえば記事本文中に見出し語句が使われていればその案内がある、といった工夫が凝らされていました。
同時に項目の区切り方も大きすぎず小さすぎず、またまさに文化横断的であるため、それをざっと見るだけでも、自分の知りたい事実だけではなく、その事実を取り巻く「知りもしなかった関連分野」まで知れるようになっているのが、非常に嬉しいと感じました。
ある世界観を丸ごと構築するために資料を集めている自分のような者にとっては、本当に本書は稀有な存在ではないかと思います。
デビュー前に出ていてくれよ! というのが本書を手に入れての率直な感想でした。
ですので、本書がこの手の書籍としてはかなり売れ行きが好調と聞いた際、さもありなんと感じました。ありそうでなかったものがついに出たぞ、という感覚は、不思議と伝わるものなのだと思います。
本書を購入している人の中には、創作者がかなりいるのではと個人的には踏んでいます。自分としても、中世ヨーロッパ風ファンタジーの物語を作ろうとする人たちからお勧めの書籍を聞かれたら、本書は筆頭に挙がる一冊になるかと思います。
また、これは本書の内容そのものとは関係のないことですが、場所も時代も遠く離れた異国の地の文化を取り扱った本書のような性質のものが、なんと国内の先生方によって編み上げられ、しかも市場に受け入れられているようだという事実に、昨今の出版事情も相まって、すごく物語性を感じてしまい、いち創作者としてやや悔しかったのでした。
支倉凍砂 (小説家)
『西洋中世文化事典』編集後記にかえて(丹治祥子)
小澤実先生より事典企画ご相談をいただいたのは、私は入社2年目、世間はコロナ禍真っ只中の2021年6月のことでした。中世のペストと新型コロナウイルスを比較するような記事がさまざまな場所で掲載されていたことをよく覚えています。
3年以上にわたり本企画にご協力くださいました編集委員の先生方、執筆者の先生方、そして装丁デザインをご担当くださった林亜紀さん、本当にありがとうございました。皆さまのご尽力によりワインレッドにノートルダム大聖堂のステンドグラスが煌びやかな『西洋中世文化事典』は完成しました。
また、刊行後宣伝にご協力くださった方々や、事典を手にとってくださった方々にもこの場をお借りして御礼申し上げます。たくさんの反響、とてもありがたく感じています。
丸善出版の中項目事典は見開き完結を特長としていますが、これまで積み重ねられてきた膨大な研究成果を見開き2頁・4頁、コラムにいたっては1頁にまとめるというのは、執筆者の先生方にとってなかなかに難しい依頼だったことと思います。さらには、ようやく原稿を書き上げたと思ったら「図版を追加」「この言葉は要意味の補足」「ここは他項目とそろえた表記で」など、編集担当の私からの注文も大量かつ、重ね重ねの確認依頼で、もしかすると途中で投げ出したくなっていた先生もいらっしゃるかもしれません。経験も浅く、知識のない編集者からの指摘や要望にも快く対応し、最後まで辛抱強くお付き合いくださった先生方には感謝の気持ちでいっぱいです。NewsPicksでの連載「『西洋中世文化事典』を楽しむ!!」で田口正樹先生が書かれていたように、まさに先生方の“精錬の技”とともに、読み物としても魅力的な事典は出来上がりました。
先生方にとっては締切との闘い、悩ましいことの連続だったと拝察しますが、私自身は、先生方より労いや励ましの言葉をいただきながら、日々楽しく編集を進めていました。先生方のお原稿をきっかけに知ったことも多くあります。おそらく事典を担当しなければ知らなかった海外の図書館に所蔵されている美しい写本(事典はほぼモノクロなのが残念ですが)、学生時代には名前と重要事項・作品しか記憶していなかった人々の活躍ぶり、さらにはこれまで読んでいたマンガの中の中世まで、数えきれないほどです。本事典が、読んだ方にとっても何か新たな発見・関心をもたらす1冊となることを心より願っています。
最後に、改めまして『西洋中世文化事典』に関わってくださったすべての方々に深く感謝申し上げます。本事典が今後の日本における西洋中世研究のさらなる発展につながれば、学術出版の編集者としてはこれ以上ない喜びです。
丹治祥子(丸善出版企画・編集部)
『西洋中世文化事典』書籍デザインによせて(林亜紀)
『西洋中世文化事典』の書籍デザインにあたり「ノートルダム大聖堂などのステンドグラスを素材として使う」とご指示いただきました。私はノートルダム大聖堂に馴染みが無かったので調べてみたのですが、そのステンドグラスの窓は極彩色で豪華な万華鏡のように圧巻の美しさでした。
また美しさもさる事ながら、当時の教会のステンドグラスの窓は採光という通常の窓の役割だけでなく、ステンドグラスに描かれた絵画により市井の人々へのキリスト教の伝導の役割も大きかった、という点がとてもユニークで興味深く感じられました。
識字率が低く挿絵本も普通には手に入らなかった時代、ステンドグラスに描かれた彩り豊かで貴重な絵は、差し込む光とともに、現代の私たちには想像もつかないほど非常に鮮烈な印象を人々に与えたのだろうと思います。
広告の走りとも言えるのかななど考えながら、この書籍のデザインにおいても、その華やかで鮮烈なイメージを伝えたいと思いました。
目立つ原色、ステンドグラスの色相に近い深みのある色を全面に、飾り文字と本のイメージとともにステンドグラスの窓を並べ、目眩く中世の世界に招き入れる美しく荘厳な門のように。
私のような専門外の人にも、ページをめくってみたいと思わせる。ノートルダム大聖堂のステンドグラスの役割をほんの少しでも務められたら…そんな思いで取り組んだデザインです。
関係者の皆さま、この度は得難い機会をいただき誠に有難うございました。
林亜紀(デザイナー)