日本:歴史学の夢の国で(樺山紘一)
もう今から、30年以上も昔の頃の話です。こんな昔話でお茶を濁すのは、典型的な年寄りの性癖。どうか、読みとばしていただければ。
1995年の夏、カナダのモントリオールで、第18回の国際歴史学会議大会が開かれました。歴史家全般をターゲットとする国際スケールの会合など、まだ珍しかった。その大会の共同テーマのひとつとして、「歴史学雑誌の現在と未来」と銘打ったフォーラム。世界中から、10誌のジャーナルが選ばれて、実情と課題を語りあおうという趣向。結果としては、そこそこの満足がえられたようにもみえました。
なんと、日本から指名されたのは『史学雑誌』。折悪しく、同誌の編集理事を務めていた小生が引き出され、重い脚をひきずってカナダに向かいました。
そのフォーラムの現場報告は、のちにいかにも恥ずかしげにひっそりと、小生の筆で綴られています。(『史学雑誌』1996年1号 コラム「歴史の風」)日本国内では、我物顔で大手を振って歩いている『史学雑誌』も、世界の舞台に立つのは、文字通り初めてのこと。いたって生真面目に、同誌の経歴と現状とを語りました。
同席した各国の関係者は、読んだこともない日本語の歴史学専門雑誌が、なんと100年近くに及ぶ経歴をもち、月刊で数千部も講読されていることに、心底からびっくりした様子でした。なにしろ、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカと、たいそう著名な雑誌の編集者が、こちらの脚元を眺めながら、信じがたいといった面で尋ねてきます。「本当なの?」と。
本当の話です。その時、日本の歴史学雑誌は、まるで鎖国時代のように、諸外国にはまったくの無名でありながら、幕府の圧力もないのに、ひとり単独で隆盛をほこっていたのです。その時、鎖国の外では、フランスの『年報(アナール)』やドイツの『歴史と社会』、アメリカの『歴史学雑誌(AHR)』など、著名な雑誌が、心もとない財務状況に苦しみながら、学術世界で影響力をほこっていました。その編集主幹たちが、さらに日本の歴史学の子細を尋ねてきます。雑誌のほかに出版物の事情はどうなのかと。正直に実情を語りました。ちょうどその頃に、準備中だった『岩波講座 世界歴史』(第2版)は、じつに全29巻、数千部の売上げが見込まれるとも。
むろんそれは30年前の現実。現在では昔話となりました。アナログからデジタルへの雪崩を打つような変貌ぶり。編集と出版の現実は、もうまったく異世界に突入してしまったようです。
けれども、数千部の専門雑誌を購読していた日本の歴史学者・学徒は、その後もけっして死滅してしまったわけではありません。今となって、国際フォーラムがまた企画されたとしたら、たぶん私たちはふたたび、現状報告に出かけることでしょう。そして、誇り高く語るでしょう。いまなお、極東のわが国では、紙の本の時代の終末が見えようとしているのに、なんと「西洋中世学会」という専門家集団が存在していると。専門雑誌も定期刊行されていると。さらには、『西洋中世文化事典』などという厚手の専門書が、見事に花咲いていますと。残念ながら、日本語というマイノリティに属する手段を用いてのことだけど、驚くべき水準を実現しながら、多くの同朋の読者を披瀝していますよと。
もちろん、私たちはこの現実に満足しきっているわけではありません。事典ができるのであれば、もっと大型の論集や全集もできるだろう。読者の数を十分に保ちつつも、日本語と英語を併記した書籍を構想することも。そしていずれは、デジタル手法を適用し、世界に通用するようなメディアによって、その成果を発信できる日も近づいているのですよと。そこでは、はかり知れない力業によって学会や事典を生みだした才知は、かならずや、新しい知的メディアを開発してゆくにちがいありません。
以上、年寄りが自力ではかなわない夢を、若い力に委ねるのは、かねてからの常套手段でもあります。皆さん、よくこの事情をお判りいただけますよね。
樺山紘一(東京大学名誉教授、渋沢栄一記念財団理事長)
中世世界の葉脈(佐藤彰一)
我が国の人々がヨーロッパの中世に関心を向けるようになってから、おそらく百数十年の歳月が流れた。日本人が最初に中世のどの側面に注意を向けたか、厳密には私は詳らかにしないが、おそらくは宗教や思想、あるいは文学ではなかったであろうか。学問的に明瞭なのは法制度の分野であり、やがて経済・社会が研究の対象となったことはよく知られている。思想や宗教は別にして、法にせよ経済にせよ、ヨーロッパ中世世界の言わば骨格の解明、探究である。このたび丸善出版から刊行された『西洋中世文化事典』は、西洋中世の文化にスポットライトを当てた事典である。法が概念世界を基軸とし、経済が人間の財貨に対する関係を抽象化して捉えるのに対して、文化現象は所与の世界の生のテクスチャー、植物に喩えるならば根幹よりも葉脈を注視し観察する精妙さが求められる領域である。
本事典は 全体が一六章からなり、第一章「環境と自然」、第二章「国家と支配」と続き、最終の第一六章「中世受容と中世研究」まで二八〇項目、コラム一六を収録している。項目の多くが見開き二ページの収められており、読者が利用する際の利便性への配慮が行き届き、加えてこの中項目主義の事典が読む事典としても活用されるよう留意して造られている。たとえば第一四章「思想と科学」は、[自由学芸/ リベラル・アーツ] で古代の自由学芸の基本知識を提供し、ついで中世におけるその展開のアリーナとなった[大学での教育] を論じ、中世における主要な人文的解釈学の対象となった[聖書] を取り上げ、[修道院神学] へと読者を誘う。対象となる知識の論理連関を充分に意識し、読者の知的領野が自ずと拡張される工夫がなされている。
編集委員長の小澤実氏の巻頭言によれば、執筆陣に中堅研究者だけでなく、若手の研究者を意識して積極的に起用したとのことである。この事典を読む愉しみには、専門の歴史家のみならず篤学の一般読者にとっても、次代を担う才能溢れる若手を見出すところにもあるであろう。
佐藤彰一(名古屋大学名誉教授、日本学士院会員)
『西洋中世文化事典』の楽しみ(井上浩一)
『西洋中世文化事典』は読む事典です。しかも個人的な読み方ができる、ひとりひとり面白く読める事典です。本書のそういう魅力を、私の場合を例にとってご説明いたします。
ビザンツ(東ローマ)帝国は西洋中世に含まれるのでしょうか?2008年、西洋中世学会設立へ向けての準備が進められていた時に、そう質問した記憶があります。「もちろんです」とのことで、私も常任委員を拝命することになりました。と申しましても、西洋中世学会ではビザンツ帝国は超少数派で、会員名簿を見ましても、専門分野が「ビザンツ」「ビザンティン」の会員は少なく、雑誌『西洋中世研究』でも、一度ビザンツ帝国の特集が組まれたことがありますが、論文は滅多に載りません。
このたび西洋中世学会の編集で『西洋中世文化事典』が刊行されました。ビザンツ帝国はやはり隅っこの方にちょっと顔を出すのだろうな、と手に取ってみました。予想通りでした。300近い項目があるなかで、これは私の専門分野、ビザンツだという項目は、「ビザンツ帝国」「ニカの乱」「中世ギリシア文学」「ビザンツ学」など片手で数えるほどしかありません。
もっとも『西洋中世文化事典』は分野横断を編集方針としているとのことですので、直接関係ないような項目でもビザンツのことが言及されているかもしれません。現に、「捕虜と身代金」「外交儀礼」という項目には、ビザンツのことが詳しく書かれています。それもそのはずで、執筆者はこの私です。編集の方から依頼があった時、「このテーマでは」と難色を示したところ、「自分の専門分野に引きつけて書いていただいても構いません」ということでお引き受けしたのでした。
それぞれの項目でビザンツ帝国への言及がどれくらいあるのかなと、ざっと読み始めたのですが、これが面白く、時間を忘れて次々と読み耽ってしまいました。しかも思いがけないところでビザンツに出会います。たとえば「修辞学」の項目で、少し前に拙著『歴史学の慰め――アンナ・コムネナの生涯と作品』で取り上げた、ビザンツ皇帝アレクシオス1世の娘アンナ・コムネナと出会いました。いったん『西洋中世文化事典』を閉じて、アンナの著作『アレクシアス』の最後の一節、みずからの不幸はニオベより大きいと嘆く一節を読み直しました。アンナが修辞学のパターンを踏まえていることが、今さらながらわかりました。
さらに読み進めてゆきますと、「皇女・王妃・王女」の項目があり、ひょっとしたらまたアンナ・コムネナが出てくるかな、と読んでみますと、オットー1世の妻アーデルハイトなどと並んで挙げられています。しかもこの項目で紹介されている皇女・王妃のなかで一番詳しい説明がなされています。少し前に丸善出版の企画・編集部の丹治祥子さんから、「井上先生が執筆・翻訳された書籍も多くの先生方より文献情報にあげていただいていましたので、ぜひ巻末の文献一覧もご覧いただければと思います。」というメールを貰っていましたので、さっそく「皇女・王妃・王女」の参考文献欄を見ました。嬉しいことに『歴史学の慰め』も挙がっています。
このような調子で項目を次々と読んでゆきました。ビザンツ帝国への言及があれば嬉しいのですが、言及の有無にかかわらず、意外な事実に出会うなど、楽しく読み進めています。皆さんも是非、自分なりの楽しい読み方で、読む事典『西洋中世文化事典』にお付き合い下さい。
井上浩一(大阪市立大学名誉教授)